空について
私たちは普段、自分の存在のことを確固たるものとして、疑うことを知りません。
自分の仕事や、家族での役割など、「私は~です」と言えるものを私たちは皆持っています。
しかし、ふとした拍子に自分自身が何者なのか、わからなくなることがあります。
それは自分の価値がひっくり返されるような体験によって起こる気づきかもしれません。
あなたの実体はどこにあるのでしょう?
あなたの体があなたでしょうか?それとも脳でしょうか?あるいは心でしょうか?
こんな風に問われると、私たちは途端に不安に襲われます。
自分が自分だと信じている、その源はどこにあるのでしょうか…?
肉体も、精神も、私たちの実体ではありません。
魂という言葉ですら、自分自身の実体の証明にはなりません。
これが自分だと信じているものは「イメージによる記号」に過ぎず、それらをはぎとってみたなら、実体は途端に曖昧になります。
そう-。私たちの実体はどにも存在しないのです。
あらゆる物事に実体はないということ。
この本質を仏教では「空」と表現します。
空を理解する上で大切なのは、空ということは、肉体や精神など、確固たるものが「存在しない」ということを言いたいのではないということです。
それは確かに存在しているのです。
私たちは食事をし、痛みを感じ、感情を感じています。
空ということで、この世界の存在そのものを否定したいわけではないのです。
またすべては空なのだから、何をしても無駄だ、ということをあらわしているわけでもありません。
言いたいことは、私たちの意識も感覚も肉体もあることはわかっているのだけど、
その実体はどこにもないということなのです。
自分という実体を探れば探るほど、命の本質を見つめれば見つめるほど、
すべてがつながりあい、無駄なものはひとつもなく、ひとつでありながら全体であるということを体験すれば体験するほど-。
私たちの実体は
「空」としかいいようのないもの
ということが、理解できてくるのです。
私たちは通常の意識のレベルでは、お互いがここに存在しているということをはっきりと認め、コミュニケーションをとりながら、社会生活を営んでいます。
それはたしかに真実です。
一方で、私たちとは何者かを突き詰めて行った結果、私たちが存在しているのは確かだけれど、その実体は空であるとしか言えないのです。
そしてこれもまた、深い意識レベルでの真実なのです。
通常のレベルでの肉体を持つ存在としての自分自身と、深いレベルでの空としての実体をもつ自分自身。
この二つを理解することで、自分自身の本当のありようが見えてくるのです。