突然ですが、みなさん『エターナルサンシャイン』という映画をご存じですか?
少し昔の映画だけど、僕、あの映画好きなんですよね。
ずっと昔に何度かみたのだけど、今日移動中にあらためて見直しました。
やはりとてもおもしろい。
主演のジムキャリーはなんだかいつもの調子じゃなくて、なんだかすごく暗い男。
そしてタイタニックのケイトウィンスレットは、髪の毛がオレンジ色で、いっちゃっている感じ。
そして大事なポジションの役に、スパイダーマンのキルスティン・ダンス。
華やかなキャストのわりには、かったるい雰囲気で始まって、
だんだん眠くなってきた頃に、徐々に主題が明らかになっていきます。
この映画の主題は「忘却」。
すごくシンプルにあらすじを言うと(ネタばれ含みます)、
恋人たち(ジムキャリーとケイトウィンスレット)がいて、付き合っていくなかで、だんだん上手くいかなくなってくる。
そしてこの映画のなかでは、記憶を除去する装置をあつかっている会社があり、
お互いがすっかりいやになってしまって、
相手の記憶を消し去ろうとする。
だけど、その記憶を消していくプロセスのなかで、
舞台は男の潜在意識の構造に移り、
ほんとうは消し去りたくない感情や、相手への想いに気がついていく。
そして相手へのほんとうの想いに気がつき、
記憶の消去を拒否するものの、無情にも装置は男の記憶を消し去る。
しかし記憶が奪われたはずなのに、またお互いは出会ってしまい、
「どこかで知っている」
という感覚に導かれて、また近づいていく。
ほんとうはもっと複雑なお話しなのだけど、ざっくりいえば、あらすじはこんな感じです。
あらためて書いてみると、「ありがち」なようだけど、
この脚本家の人は、人の意識の構造をよ~く知ってるな~と、うなってしまいます。
機械によって、人の意識の内側へ入りこみ、記憶を除去していくのですが、
この描写がアカシックで人のセルフイメージにはいりむときの印象にそっくりです。
相手との関係性をアカシックにたずねると、
まずは相手に抱いている主要な感情があらわれ、
そしてその感情がどのようにつくられたのかということが、
ホログラフィックな構造物となって、一瞬で情報としてやってきます。
そしてひとつひとつの想いで深い出来事と、つながっている感情のリンクがあらわれ、
そこにとりのこされている葛藤と、その葛藤に付随した今回の人生の出来事、そして過去の出会いのリンクその奥に見えます。
主人公のジムキャリーは、表面上で起こった彼女とのいざこざの記憶とストレスを消したいと望むのだけど、深層心理に入っていくと、
それに付随している彼女とのふれあいで蓄積された感情の層があり、その奥にいわば彼女への「本心」があります。
機械によって男の記憶をひとつひとつ剥ぎ取られていくときに、その奥にある感情と本心があらわれてきて、それは消し去りたくはないと、男は望む。
このあたりの記憶の構造の描写が非常に見事です。
(トータルリコールとか、アルジャーノンも同じような記憶除去ものだけど、ここの描写はこの映画がピカイチ)
そしてこの作品はSFとして描かれているけれど、脚本家の方はこれを男女のもつれ合いをとおして、人間の意識の構造と、輪廻のなかで、「忘却」がどのような役割を果たしているのか?ということを伝えようとしていると私はおもいます。
人間に与えられた恩恵のひとつは「忘れる」ということだと、常々僕は思います。
一見、すべてを覚えている方がよい、と私たちは考えます。
もしそうすれば、過去の過ちから学ぶことができるだろうし、
同じ過ちは繰り返さないだろうと考えるからです。
つまりわすれることがなければ、まちがえないだろうと。
だけどね。
これちがうんですよね。
ここは「すっかり自分を忘れてしまって、もういちど見いだす」ための場所。
もし忘れる、ということがなかったら、そもそも人生の物語はスタートしません。
だって、人生の一番最初からぜんぶ覚えていること想像してみてくださいな。
(前世の記憶がある子どもの話はおいておきましょう。なぜならどのような人であっても「ぜんぶ」を覚えているわけではないので)
それってたぶんすごくつまらない人生だと思いませんか?
そしてさらに言えば。
「間違いをおかさないために、ここに私たちはいる」
のではなくて、
「すべてをすっかりわすれて、間違いをおかすために私たちはここにいる」
とも僕は感じています。
だってそうじゃないですか?
間違えがない人生をおくるために、ここにいるんだったら、そんな人生つまんない。
一度わすれて、もう一度見いだす。
何度も何度も自分を見失って。
何度も何度も同じ人に出会って。
何度も何度も同じ感情を体験して。
何度も何度も自分の本心に気がついて。
そしてまたすべてをわすれて…。
そして見いだす事に、その奥にある「永遠のたましい(エターナルサンシャインと映画では呼ぶのでしょう)」の断片があらわれてくる。
そしてこの映画の脚本は、その構造を男女間のもつれあいといして表現しているように僕には見えます。
そうそう。途中でニーチェが引用されていることからも、この映画の副題は「永劫回帰」なのでしょう。
そのあらわれとして、最後もまた主役の男女たちは、再び出会ったにも関わらず、また喧嘩をはじめようとするんですね。
僕の人生もほんと間違いだらけでした。
特に男女関係は…。
大きい意味で言えば、
「人生になんにも間違いはなかった。すべてはうまくいっている」という言い方で、まとめることもできます。
だけどね。
「間違いそのものが超やりたいことだった」ともいえるんです。
いやむしろ。
「間違えるために、ここにいる」
とも言えてしまう。
そうでなければ人間に「忘却」というものはそなわっていないはずだから。
だから僕はワークのなかでは、こういう風に伝えています。
「間違えないようにしようとおもうことが、たったひとつの間違いだ」
と。
だからね。
いいんです。
間違えて。
間違いをおかすということは、人間というシステムそのものなのだし。
宇宙の構造そのものなのだから…。