質問:
お葬式って一体何をやっているんでしょうか?
葬儀の現場で、実際には僧侶の方はどんなことをしているのか、本当の意味でおしえてほしいと思います。
つうり:
では私なりの観点からお話ししますね。
実際、お葬式ってブラックボックスですよね?いったい何をやっているのかさっぱりわからない。
皆さんお葬式に関してどんな印象があるでしょうか?
ぜひ皆さん、教えてください!正直に言ってくださいね(笑)。
(つうり、参加者を当てる)
参加者A:実際にいろいろなお葬式に参加しましたけど、わからないことだらけです。勉強不足なのかもしれませんが…。
参加者B:暗くて、どんよりしているイメージですね。
つうり:なるほど。ありがとうございました。おっしゃること、とてもよくわかります。
ここで皆さんに考えていただきたいんですけど、どうしてお葬式するかというと、理由があるんです。
生きている私たちも死んでいる人もほしいものがあるんです。それを亡くなった人に与える為にお葬式があるんです。
じゃあ、生きている人も死んでいる人も赤ちゃんも唯一全員に共通する欲しい物は、何でしょう?物じゃないですよ。
お金とかじゃないですよ(笑)。気持ちみたいなものです。
参加者C:安穏、平安?
つうり:なるほど。確かにそのとおりですよね。
参加者D:愛情?
つうり:それも本当に必要ですよね。
参加者E:記憶?覚えていてほしい。
つうり:皆さんいい線いってらっしゃいます。
それらを全部、むすびつける言葉があります。
生きている方もなくなった方も唯一ほしいもの、それは「認めてほしい」ということです。この言葉が、あまりぴんと来ない方もいるかもしれませんね。
認めるということは、ものすごく大きいことです。
私たちは子供のときに本当の意味で、両親に認められるという経験をしてきたか?はたまた夫婦で暮らしているお二人がいらっしゃったら、本当の意味で認め合っているなら?
すべての人が本当に欲していること。
それは認めてほしいというただそれだけなのです。
私は年間に40件近くお葬式に関わってきましたので、様々な場でお経を読ませていただき、多くの死の現場に立ち合わせていただきました。
そして葬儀を行うなかには、後悔がたくさん残っていらっしゃる方もいます。
どういう方が後悔を残しているかというと、やりたいことが出来なかった人なのですね。そしてやりたいことが出来なかったということは自分がいくら頑張っても認められなかった、ということ。
やることはやった。人生自分なりに頑張ったけど、どうやら思ったように周りに認められなかった。あるいは自分で自分を認めることができなかった。そういう思いが残っているとその方は後悔を抱えたまま、亡くなることが多いのです。
生きている我々もある意味、同じです。
(参加者の女性に近づきながら)もし本当に旦那さまがあなたを100%認めてくれるひとだったらどうでしょう?
参加者F:…そうですね。自分の存在価値を本当の意味で認めてもらえたら、自信がもてると思います。
つうり:激しく頷いてらっしゃる、後ろの方はどうでしょうか(笑)?
参加者G:私は両親に認めてほしいって思ったときに、認められてないことがあったんだなと思い出しました。
つうり:生きている我々もそうなのですが、亡くなった人がほしいのは、認めてもらうこと、つまり承認なのですね。
よく葬儀では故人に感謝を伝えると最近言いますが、感謝というと少しニュアンスが違う。
その人の存在を丸ごと認めてあげる。あなたがここにいたということを、みんなが認めていますよと伝える。そのためにお葬式があるのです。
私はお葬式の席ではよくこういう話をします。
今ね、ご本人亡くなりました、と。そして皆さんに私と一緒にやってほしいことがあります。
私は僧侶という立場で皆さんの気持ちを届ける係りです。料理人みたいなものです。
向こうにいるのは、お客さん。つまり亡くなった人。
みなさんはお料理の素材です。
私が料理しますから、皆さんはたくさん故人のことをお話してください。
どういうやり方でもいい。とにかくその人のことを思い出してもらって、お話して、認めてあげてください。その人がどういう人生を生きたのか。どういうことを成し遂げたのか。そして何ができなかったのか。
そういうものも含めて、プラスもマイナスもなく認めてあげてください。
そういう思いをお葬式の間、たくさんもっていてください。私はそれを経や儀式という形でお届けします。
それがお葬式です…と。
ですから、お葬式ってただ経を読んでね、わからないお経や呪文を唱えているわけではないんですね(笑)。
そういう皆さんの気持ちを亡くなった人のところへ届けるのが、お葬式なんですね。
患者さんを目の前にする臨床の立場がお医者さんだとしたら、私はご遺体を目の前にする臨床の立場です。ですから、本当に認めてほしいという気持ちが亡くなった方に届いた瞬間はしっかりと私にはわかります。
あ。今、認められたな、この人。そして、生きているときに後悔が、皆さんからの認められたという気持ちによって、今、ほぐれたなという瞬間がある。
よく亡くなった人のことを「ほとけ」といいますが、それは語源が「ほどける」というところから来ているという説があります。
生きているうちに後悔を減らし、やりたいことをやり、他人からも自分からも認められることを全部済ませた人は、生きているうちに後悔などの固い想いが「ほどける」から、仏になったと言われる。
お釈迦様とかね。悟ったとか、覚醒していると言われている人達は、生きているうちに「自分で自分をほどいた」人。
それを生きている間は出来なかったから、じゃあ亡くなった後に全員でそれを手伝おう、そのために認めてあげるという気持ちを遺族たちが届けると、ひとつずつ後悔や、やれなかったことがほどかれていく。
そしてほどけきると仏になる。
そんなことをお葬式ではやっているのですね。
私たち僧侶の中で通説になっているのは、亡くなった方のお顔は死後変化するということです。亡くなった方の心のありようで、お顔は次々と変化するのですね。
チベット死者の書にある話ですが、亡くなった方はまだ耳が聞こえていると言います。
ですからお葬式のときに、亡くなった方のうわさ話なんかしているとみんな聞いているのですね。
枕元で財産争いとかしていると、もちろんみんな聞いている(笑)。
そしてもちろん、故人がこんな人だったとか、こんなに素晴らしいことをしたという話も聞いている。
そしてね。お顔が段々ほぐれていくご遺体と、認めてほしいという気持ちがすごく残っていて、すごく険しい顔になっていくご遺体とがあります。
また亡くなった方のお顔が険しいときには、だいたい遺族の方々が荒れるんですね。財産争いが本当にあったり、兄弟の間でいさかいが生まれたりしてね。
その時、亡くなった方の認めてほしい気持ちが残っているから、遺族が荒れるのか、それとも遺族が荒れているから、亡くなった方が認めてほしいという気持ちを残しているのか。
たぶんどちらもなのでしょうね。
いずれにせよ、亡くなった方が生きているときに認めるということが出来なかったら、今度別のやり方でそれを与える必要があるんですね。