少しおくれてしまいましたが、お彼岸のお話。
「彼岸」とはあの世のこと。
そして対になる言葉は「此岸(しがん)」。
これはこの世のことをあらわしています。
四季のなかで、春分と秋分は、陰陽のバランスが最もとれた日。
このことから、あの世とこの世のバランスが最もとれた日として、自分自身の中心に意識をあわせやすい、ということで、寺へでかけるのです。
そしてこのお彼岸の時期というのは、亡くなる方が多い時期でもあります。
僧侶たちの間では、この最もバランスのとれた時期である、お彼岸の時期前後に亡くなる方は、
「寿命を全うしきった方」
だと言われています。
私は多くの死に関わり、
人は「死に方」を
自分自身で決めていると感じています。
家族と離れたそのときに、消えるように、亡くなってしまう方。
事故で離れた土地で亡くなる方など。
それぞれですが、この世を離れる最後のタイミングを
どのようなやり方で、意識をこの世から移行させていくのかということは、
ご本人が決めていらっしゃる。
私の母方のおじいちゃんは、小学校の校長先生でした。
彼は58歳で小学校の運動会の催しで、綱引きをみんなに混じり、行い、
頭痛をうったえて、
少し休むといって、校長室のソファで寝ころび、そのまま亡くなりました。
脳溢血でした。
私が生まれる前の出来事ですが、私の家のなかではよく語られる出来事のひとつでした。
祖母はくやしそうにこの出来事を話、
母は校長をまっとうした人生をいとおしそうに話します。
私の家族はこの事件をとおして
おじいちゃんという人を惜しみ、愛し、評価していました。
この話をきいたとき、
「死に方を通じて、その人生は語り継がれる」
あるいは
「死を通じて、人はこの世に語りかけるのだ」
ということが、はっきりと私の内側で意識されました。
それから僧侶として、多くの人の死を見てきました。
どの方もその人の亡くなり方は、本当にその人らしい。
死を見ると、その人自身の人生がうきぼりになります。
死に関わるとき、私たちはいつも自分主体で死をとらえてしまいます。
何ができなかったか、どうしてあげたかったのか、などの想いが私たちを包むことがあります。
ですが。
死を通じて、その人は何を語っているのか-。
そんな視点で、死者をとらえると
それはそのまま死者との会話であり、
供養となります。