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偉大な神秘体験をして、光に包まれ、師匠にぶん殴られるのは何故か?

偉大な神秘体験をして、光に包まれ、師匠にぶん殴られるのは何故か?

自分とは何か。

人類が何万年もかけて、散々語り尽くされてきたテーマのひとつですね。

自分探しをしなさいとか

あるがままがいいとか、

固定的な視点だけでは、自分が何かというものはなかなかみえてきません。

西洋と東洋。

物質と非物質。

役割と本質。

肉体と魂。

要は、このふたつの架け橋となっている存在が自分です。

どちらだけとは言い切れない。

あるポイントだけを探して

「これが自分だ!」というものを見いだすなら、

それはある意味、罠となります。

たとえば自分自身の特別な才能を見い出すこと。

それ自身はまったく間違ってはないのですが、

その背後にある「つながり」

を見失ってしまうなら、

それは罠なのです。

仏教の禅の修行では、

自分自身のアイデンティティをたまねぎの皮をむくように、

どんどんと剥ぎ取っていきます。

そしてそのプロセスの途中で、偉大な神秘体験をして、光に包まれて、「これが自分だ!」と叫んだなら、

師匠に思いっきりぶんなぐられて、喝を食らうのです。

なぜか?

あなたが出会ったものが自分の魂だとしても、一なる神だとしても

それが自分の本体だ!!!と思ってしまったなら、

いまいる小さな肉体をまとった自分は自分ではないということになってしまうからです。

それは「半悟り」であって、本当の悟りではないと師匠は弟子をいましめるのです。

アカシックレコードは、大いなる自己である魂と、小さな自我である肉体をつないでいます。

アカシックの内側に立ち入るなら、いつか大いなる自己に目覚めるときはやってきます。

それは言葉にできないほど美しい体験です。

だけど本当に大切なのはそのあと。

どんなつながりのなかで、あなたがここにいるのか?

大いなる全体とつながりながらも、なぜこんな小さなことをやっているのか?

それを一瞬一瞬見いだせるなら。

アカシックレコードの探究で自分とは何かを見いだせた、と言えるのでしょう。

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