体外離脱による意識の拡大の体験
アカシックレコードによる意識の拡大の影響のためか、私はある時、体外離脱の体験をしました。
眠りに就く間際に体が微振動を感じ、飛行機が離陸するような音が大きく聞こえ始め、そのまま体が上方へと強く押し上げられました。風を切り、体は大きく上へ上へと上がっていきます。
気がつくと、実家の寺の上空から、本堂や母おも屋や を見下ろしている私。
五感はすべてそのままですが、異様に研ぎ澄まされ、すべての感覚がクリアなのです。
本堂の横には実際にはない仏塔が見え、地下の霊脈がどのように寺とつながっているのかが、はっきりと視覚的に見えました。
自分の手を慌てて確認すると、体の輪郭はそのままですが、満天の星が散りばめられた夜空が体の内側に輝いているように見えます。
「人って本当に肉体だけじゃない存在なんだ……!」という力強い気づきと喜びが全身を包みました。
アカシックレコードへの初めての意識的なアクセスと、この体外離脱の経験によって、私の認識の枠は大きく広がり、死の領域の向こう側、この肉体を超えた無限の領域へと扉が大きく開かれたのです。
(齊藤つうり。『自分探しのアカシックリ-ディング』より)
数学者でないものは、「四次元」的なものを耳にするだけで、 オカルト的思考によって引き起こされる感覚に似た、得たいのしれない身震いに襲われる。
けれども、私たちが暮らす世界が四次元的連続体であるという発言ほど当たり前のものはないのである。
-アインシュタイン –
私たちの意識は、不思議です。
意識は脳という物理的なものに依拠しているものではありません。
意識とは、現在の科学的な視点の遥か先にある、宇宙の非物理的領域へとひろがっている連続体です。
この意識の連続体は宇宙が持つ多様性と大きさを持っています。
私たちが眠りにつくとき、私たちの意識は連続体としての機能を取り戻します。
夢や、瞑想などを介して、私たちは自分がこの肉体だけの存在でなく、連続体なのだということを知ることができます。
このことに気がつくことは、私たちの進化の大きな一歩といえます。
意識は連続し、途絶えることはありません。
死ですら、領域から領域への移動にすぎないのです。
そしてこの意識の連続性は、私たちが実際に体感することが可能です。
体外離脱の手法は、私たちこの意識が連続体であることを、外側の何者でもなく、「体験として」得ることができる機会を与えてくれます。
思考をむけたその場所にわたしたちは、意識の実体をもちます。 それは、物理的な法則を超え、非物理的領域へとひろがっているこの宇宙のありようを教えてくれるのです。
これらの話は、とても概念的なことを伝えているように感じられるかもしれません。
しかしアストラルレベルでの体外離脱を一度あなたが体験したなら、意識が連続体であるということは、けっして難解な概念の話ではないと気がつくはずです。
この意識の連続体について、私たち日本人は奥深いところで実は理解しています。
日本語で自分自身のことを「わたし」と表現しますが、この言葉は自分自身が「渡されたもの」「何かから何かへ向かってのプロセスそのもの」ということを教えてくれています。
「わたし」の語源は仏教にあり、短い時間のなかで自分をとらえるのではなく、長い時間のなかで自分をとらえるまなざしが含まれた言葉なのです。
普段私たちは、自分自身というものと、自分の意識のありようを固定的なものだと信じて疑うことはなかなかありません。
しかし、ちょっと大きな時間の流れで人生を見てみると、赤ちゃんから、大人になり、やがて老人へと肉体が変化していく人間存在は、実際には大きな川の流れのように、いつでもとどまることを知らない、意識の変化のプロセスのなかにいます。
自分自身を認識するとき、私たちは大抵、現在の自分がいる立ち位置-仕事、立場、自分自身がいまやってること-を指してこれが自分だと認識します。
しかしそれはその都度変化するのです。
もしあなたが自分自身を固定された一点をアイデンティティであり、それが自分だと認識するなら、それはやがて幻想だと気がつくときがくるでしょう。
日本語の「わたし」という言葉は、自分自身は意識の連続体であり、生から死へ、また未完成から完成へ、偶然から必然へと放たれたひとつの矢-プロセスそのもの-なのだということを、伝えています。