ありがとう。ありがとう。
私たちがよく使う「ありがとう」。
この「ありがとう」についてのお話。
ありがとうという言葉は、有り難いから来ていますよね。
「有り難い」というのはご存じのように感謝の言葉ですが、
よくこの言葉を考えてみると、
「有ることが難しい状態」
という意味なのですよね。
一体、
「どう有ること」
がそんなに難しいのか?
そしてその
「どう有るのか」
が、どうやら感謝に結びつくらしい…。
ちょっと謎々のような感じです。
私たちが日常で一番難しいことはなんでしょうか…?
それは
「いまここにいること」。
私たちは普通、過去の体験に基づいて、未来を予想しつづけて暮らしています。
たとえば、いつも食べている白米の味。
普段は何気なく特においしいとも思わず食べているけれど、長く海外旅行にでかけたあと、日本で食べる白米と梅干しのおいしさ。
いつも変わらず目の前にある食べ物のおいしさって、なかなか気がつかないんですよね。
ですが、よく感じてみれば、味そのものは変わりはしない。
もし「いまここ」に、いることができれば、日常のすべては、新鮮な味わいに満ちているはずです。
そしてその「いまここのエネルギー」こそが、「感謝のエネルギー」と言えます。
私はごはんと梅干しが大好きなので、この例を引き続き使いますが…。
本当においしいものを食べたとき、その味わい深さ、素材を提供してくれた自然、つくってくれた人、本当にすべてに感謝したくなりませんか?
ですが、「本当においしいもの」とは、ご馳走のことではないのです。
いつも口にする、ご飯と梅干しに心から感謝を感じられるのなら、「いまここ」に存在できていると言えるのかもしれません。
また、いまここにということに関して、別の例をあげてみたいとおもいます。
聖人たちを描いた絵画や仏像などの、アタマの後ろに、ぴっかりと光が指しているのを見たことがあるでしょうか?
実は、後光が指す理由は、彼らが過去にも未来にも縛られず、「いまここ」に存在していることを表していると私は感じます。
いつもの変わらない毎日のなかでも、常に「いまここ」を続けている仏や聖人たちは、目の前の出来事にいつでも「びっくり」しています。
瞬間瞬間の美しさにびっくりするその様子が、あの後光として描かれているのではないでしょうか?
そういう存在である仏や聖人が描かれた絵画などをみるとき
「ありがたいね~」
と人は手をあわせたくなります。
でも、これは逆なのですね。
仏や聖人たちは、普通の人をみて、その美しさにびっくりしている。
過去にも未来にも縛られないその視点で、人を見たとき、そこにはそれぞれが個性を持っている雪の結晶のような美しさが存在しているだけなのです。
その仏や聖人たちはひとりひとりの個性の美しさに感じ入って、びっくりして光が指している。
美しいものを見ている時の人の顔って、すごく輝いているんですね。
その仏や聖人たちを見て、私たちは「ありがたい」とおもう。
仏や聖人たちが「いまここ」にいるのを見て、「ああ。こうしていつでもいまここにいる人が本当にいる。有り難いことを成し遂げたんだな…」と感じている。
これがありがとうの本当の意味かもしれません。
そしてまた。
日常のあたりまえの時間をすごしているなかで、私たちは感謝を感じることはなかなか難しいことですよね。
そして特に感謝を感じることが難しいのは、身近な家族などです。
なぜでしょうか?
過去の蓄積がありすぎるのです。
あのときああだった、こうしてくれなかった、こうされた…。
そんな過去の記憶が、さらに未来への予想をつくっています。
どうせこうだろう、こう言ったら、こう返されるだろう…。
この過去と未来に散ってしまった意識が、「いまここ」が生み出す瞬間瞬間の美しさから、私たちを遠ざけてしまい、感謝を感じることができないのです。
少し長くなりましたが、まとめてみます。
感謝はいまここにいる状態そのもの。
日常で感謝を感じることができないとしたら、それは過去と未来にあなたの意識が分散しているからかもしれません。
あるいは、抱えていることが多すぎる「忙しさの病」にかかっているのかもしれません。
少しだけ、深呼吸をしてみて、「いまここ」を感じてみましょう。
そして近くにいる家族やパートナーを見てみてください。
もしもあなたが一切の過去や未来の予想をもちこまずに、家族やパートナーと瞬間瞬間、新しく出会うことができたなら。
そこにはひょっとしたら、「感謝」以外、何もないのかもしれません。