仏教

死の一秒前

死の一秒前

先日、ある方の葬儀を行わせていただきました。

私がとても尊敬をしている方でした。

その方とのご縁は、知り合いの紹介で、ガンで余命半年という患者さんがいるので会ってもらえないかとのことからはじまりました。

80歳を超える男性の方でした。

はじめてお会いしたとき、開口一番の言葉はこのようなものでした。

「あなたは僧侶なんだって?命の本質とは何だ?話してください」

80歳を超えるとは思えないほどの言葉の鋭さと、何よりも、本当に答えを探し求めている真摯さと情熱が彼から伝わってきました。

私が自分自身の体験を元に、命の本質の話をすると、彼は自分も寺の生まれであり、同じ宗派だったことを明かしてくれました。

そして私たちは年齢を超えた友人になりました。

それから私は2カ月に一度ほどのペースで彼と話をするようになり、彼は自分自身の闘病生活から得た、臨死体験の話などを私に教えてくれるようになりました。

彼は亡くなる最後の最後の最後の瞬間まで人生にチャレンジをし続け、死の直前まで、自分の人生に答えを求め、「ここまでで十分だろう」という安易な妥協を一切しませんでした。

彼にお会いするたびに、身体はすでに火が消えかかっている状態にも関わらず、論理的な思考や分析力は衰えることがなく、死の向こう側や仏教の死生観について鋭い質問を私に浴びせ、その尽きることのない情熱に「どうしてここまでできるのだろう?」「何が彼を突き動かしているのだろう?」と何度も考えさせられました。

そして死の数分前。

その方は「すべての答えを知る瞬間」を迎えました。

死の間際、ひとつの命をすべて燃やし尽くして、彼はその瞳に神の姿を焼き付けたのです。

もう言葉を発することはできませんでしたが、神を見た人だけが持つ独特の澄みきったまなざしを通して、死を見守る回りの人たちに彼は自分の体験を伝えました。

その答えの大きさは、これまで彼が人生のすべてを費やしてきた疑問と否定、そして意図と情熱の大きさとまったく同じ。

どうして彼が真実を追い求めることを諦めなかったのか。

それは最後に得る答えの大きさを知っていたからなのだと私は心から納得をしました。

僧侶という立場を通して様々な死を観察するなかで、私が自分自身の信念として持っているものがあります。

それは

「死の一秒前までその人生が成功したかどうかはわからない」ということ。

成功という言葉を使いましたが、もちろん社会的な成功を意味しているわけではありません。

その人生でやりたいことが本当の意味でできたのか。

それをここでは成功という言葉で表しています。

もしあなたが今、目の前のことで立ち止まってしまうことがあるなら、こんな風に考えてみてください。

できることを精一杯やるも良し。

迷いに迷って、回り道するも良し。

何もしないのも良し。

どんな道をたどっても、失敗はありません。

最後の最後の最後の瞬間、「死の一秒前」まで人生はわからないのですから…。

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